20年前に見た未来 その3 「電子ペンと今でいうスマホ開発」

その時は入力がしずらくて、何とかならないかと色々と試していた時期だった。

ワコムの高くて重くて大きい液タブは当時からとても優秀だったけれども、一般的には普通に手の出るものではなかった。

ワコムの初代液タブ

安価で軽くて持ち運べるデバイスがいいと考えていた。

慣れ親しんでいたペンはやはり一番いいので色々と試した。当時はニュートン、ザウルスなどがペン入力のPDAだった。

アップルのニュートン
シャープのザウルス

しかしこれは本体ありきのペンであり、汎用性のあるものではなかった。

作りたかったのは携帯でも、PCでも、何にでも使えるペンだった。

試行作顔の結果、一つのプロトタイプを作った。名称はプロトタイプだからわかりやすい名前、ペンだペン、としてみた。ふざけた名前だが本気だった。

本当に色々と検証していただきありがとうございました。またお会いしたいですね、荒木さん。

MDSの荒木氏と七転八倒しながら作り、検証し、直し、作る、を繰り返した。結果できた。格好悪いが、プロダクトデザインなどは後で何とでもなる。要は、使えるか否か、だ。

ペンだペン初号機

使えた、便利だった。精度は、、、改良の余地ありだが、初動としてはまずまずだった。

ペンだペン最終バージョン。一応、何にでも書けた。

商品化はしなかった。できなかった。商品の良し悪しではなく、理由は全く別のところだった。

グループ企業内でのトラブルに巻き込まれたために商品開発を続けていけなくなったからだった。それはいずれ書こうと思う。ここでは当時見ていた未来の話だけに絞ろう。

当時は本当に辛かった

とにかく、当時は他にも色々とプロトタイプを開発してはメーカーに提案していた。守秘義務が未だに生きているので詳細に書けないが、いくつかは形を変えてすでに商品化されている。対価も十分にもらったので文句はない。

辛い思い出は忘れて気を取り直して次に行こう

例えば、今でいうスマホのような機能を持った携帯電話。

DV-PC,

キーボードが付いたミニPCにカメラと配信機能がついているデバイス

サイクロプス、

画面を通して拡大されたWindows PCを操作する携帯電話

合体携帯(他にいい名前はなかったのかと思うが。。。)

ペンだペンと合わせて使う、掛けて書ける携帯電話

など変わり種も提案した。

他にも色々とあった。次回はそれらも含め、順を追って紹介しようと思う。

ー続く

起業してから早30数年 その2

その仕組みはこうだ。

まず、法人を友人名義で設立する、その法人の筆頭株主になる→友人がCEOに就任する→私は無給のボランティアとしてその法人の仕事を手伝う⇄必要に応じてその友人からお金を借りる→年度末にその法人がら配当金を貰う→友人に借りたお金を返す。

注)この図は単なるイメージです。

法的にはこれで問題ないとの弁護士の助言だったので、早速、今度は日本でいうところの税務署、国税局、IRS(internal revenue service) に行き、本当に大丈夫なのか確認することにした。

すると、税法上も問題はないとの返答だった。移民局はどうか。

そこにも聞きに行ったが問題はないとの返答だった。

それはそうだ。法的に私は有償の労働は一切していないのだから。一資本家としての報酬を得ることはなんら問題ないのだから。ただし、もちろんこれは自分の考えるビジネスが成り立たなければ1セントにもならないし、売り上げが立ってさらに入金があるまで、しかもそれから株式配当の日までは文字通り”無報酬のボランティア”な訳だ。つまり成功させ、且つ耐える力があればできる方法ではある。

結構きつかったなあ

設立費用は?

会社設立に要するお金は資本金1,000ドルと登記料並びに弁護士手数料の1500ドルの合わせて2500ドルだけ。当時の日本円で約35万円ほど。掻き集めればなんとかなる額だった。

やればできる!

こうして株式会社NKLの前身であるK&L Motion Picture Equipment Purchasing, incは産声を上げた。

ちなみに、K&LのKはKarubeのK、Lはその友人、Lester Lattaile のL,だった。ちなみにNK特機はNikkatsu(日活)のNと Karube(軽部)のKであったと聞いていることも加筆しておく。

ー続く

未来の撮影手法について その1

最近チラホラと目にしやすくなってきたLEDスクリーンを使った撮影手法。
今はまだ色々な面で使用するには壁がありそうだが近い未来,5〜6年後には普通に選択肢の一つにまでなると思う。

今の壁はコスト、背景とのリアルな合致性、カメラの動きの制限、などは挙げられると思う。

コストはもちろん利用が広がれば他のそれらと同じように下がってこなれてくるだろう。

背景とのリアルな合致性は背景とカメラの同期の精度、照明の同期の精度、グラフィック自体の精度などの技術の進歩で年々それが合成だとはわからなくなると思う。

ではカメラの動きの制限はどうだろう。今のところ一番のネックではないかと思う。

カメラの色味やIrisの制御は今も動機が取れていると聞いているし、動きも横移動であれば同期ができているとも聞いている。縦移動もできるのかな<少しは。

しかし、実際の外ロケと同じような機動性は未だ疑問だ。これを解消するにはいくつかの問題をクリアにする必要があるだろう。

一つは、正確なカメラ位置の把握。
一つは、クレーンのXYZ軸の同期。

が挙げられるだろう。これを解決するには工学的アプローチと機械学習的アプローチが必要だと考える。

ということで今、開発室ではカメラ位置を瞬時に把握し数値に置き換えるシステムを開発中。同時に同期を取るためのAIも開発中だ。

システムができれば新たな撮影手法が確率でき、今潜んでいる問題のクリアにできるはずだ。それが楽しみである。

20年前に見た未来 その2 「家庭用ロボット開発」

今でこそ色々とラインナップが出てきた家庭用ロボットの類。ネットワークカメラたち。

当時はまだまだ先の技術だと思われていた。しかし、よく考えると当時の技術でも色々なものを応用すればできるんじゃないか?と考え出してプロトタイプを作ってみた。

それがこの2台。一台はロボットというよりは今でいうネットワークカメラ機能を主体とした小型ロボット。ペットの見守りや子供の見守りの目的で開発した。これは基本動かない。親しみやすくするためにロボットの形を模した携帯電話網を利用したネットワークカメラだった。

もう一台はそれよりも進化させた、完全二足歩行のロボットを携帯電話を利用することで制御するロボット。友達ロボット、または介護ロボットとして開発したものだった。

両方とも某メーカーにて契約したが商品化まで漕ぎ着けなかったのは残念だが、今は代わりに色々と出てきているのでそれはそれで楽しい。自分が欲しかったから開発したのが原点だから結果オーライだ。

次は今で言うタッチパネルやタッチペンみたいなものを考えて開発していた、という話を書こうと思う。

ー続く

マニアな映像機材の今昔話 その2

当時のアメリカ、とりわけハリウッドは撮影技術においての一つの過渡期を迎えていたと思う。

カメラは長い間一強と言われていたPanavisionに対抗するArriflexが出てきて、照明機材もタングステンからHMIにどんどん変わっていった。

クレーンなどの大きな機材もメイドインアメリカなMatthewsに対抗できうるメーカーがオランダから虎視眈々とアメリカ市場を狙っていた。Egripmentだ。

メカニカルドリーにもその潮流は及んでいた。強気のリースでしか自社製品を扱わせないのはPanavisionのお箱ではなかった。ドリーメーカーのChapmanもその仕組みを使って全国展開をしていた。

しかしその市場にもヨーロッパの波は押し寄せていた。ドイツのPanther社だ。Chapmanの油圧式ドリーに対して当時の先端技術であるコンピューターを搭載した空気圧式ドリーだ。

そう簡単にハリウッドの技術者たちは新しいものに移行はしなかった。それこそ大きいもの、重いもの、頑丈なもの、シンプルなものが正義のアメリカ出会ったがゆえにヨーロッパ勢は苦戦した。

しかし、ヨーロッパに意外によく似た構造を持つ日本はこれに大変興味を持った。

そのあたりから欧米混戦のまま日本の撮影技術は大きく転換して行くことになる。

ー続く

起業してから早30数年 その1

厳密に言うと起業は1988年だから33年だが、社長になったのは帰国してからだから27〜8年か、会社のサイトに書いてあるのとは少し違うけどその辺りはうろ覚えだ。なにせその頃は必死だったから”いつ”とかを考えている暇さえなかった。

そんなことを思い出すほどの余裕はずっと後になってからだった。まあとにかくなぜ創業年と社長就任の年が違うのかと言うとその理由は当時の私を取り巻く環境がそうだったからだ。

当時、私はアメリカに留学していた。起業は留学中に行ったからだった。


留学中ということは学生であり当然ビサは学生ビサ。つまり就労してしまうと不法滞在になってしまい下手をすれば強制送還になってしまう。

なので、私は起業するにあたり知り合いの弁護士に幾度となく相談をし、合法的に起業し、そして働くことのできるその仕組みを模索した。

アメリカでの起業の仕方や、なぜ起業したのかについては今度どこかでまた詳しく書きたいと思うので今回は割愛する。

とにかくその仕組みとはこうだった。

ー続く

20年前に見た未来 その1「一億総ディレクター時代」

これらが具現化すればどんなにやりたいことが現実化するだろうと思って突っ走っていたあの頃、それらが今は本当に実現している。なんて素晴らしいことだろう。その当時、ではどんなことを考えていたのか、具現化させようとしていたのか、それを少し思い出してみようと思った。

一つ目。

今はYouTubeや他の動画サイトとして現実化しているが当時は何一つなかった。なかったから作ろうと思った、当時のNTTドコモと組んで。

それがこのブロードバンドダッシュ放送局構想。

当時付けたキャッチフレーズは「一億総ディレクター時代の到来」だった。まだ、インフラがISDNからやっとADSLに変わり始めた頃、ストレスない動画の配信など夢のまた夢だった。

それでもこのシステムであればなんとか具現化できると進めていた、総務省まで巻き込んで。しかし具現化はできなかった。あれから20年。様々な選択肢すらあるほどの動画サイトができ、一億総ディレクター時代は叶った。これは楽しい。

他にも、今は当たり前の、ネットワークカメラやロボット、VR空間やホームセキュリティシステム、スマートホン、クラウドコンピューティング、果てはそれらに必要なUSB電源まで考えて提案していた。それはおいおいまた書こうと思う。

ー続く

マニアな映像機材の今昔話 その1

さて、今日は少し映像機材について語ろうか。

私がこの業界、とりわけ、映像機材に関わってからはや三十数年がたった。その間には目まぐるしい進歩があった。ここで今、少し当時を振り返ってみたい。

一番最初の頃、まだ私が少年で、何もわからず近所を駆け回っていたそんな頃、1960年から70年、そして80年代初頭のこと、映画のカメラはパナビジョン。テレビのはNHKから池上通信。そんな時代だった。それ以外は話にもならない、とまで言われていたらしい。

特殊撮影機材も大掛かりのものだった。今のように折り畳んだり引っ込めたりなどできる代物はなく、トラックの荷台に首長竜かと思われるようにドカンと積まれたいわゆる大クレーンや中クレーンと言う馬鹿でかく重い撮影クレーンだった。時折遊びに行った日活撮影所にはそんな機材がたくさんあったと記憶している。(探してみたが流石に昔のこの頃のクレーンの写真はなかった。)

そして、しかもこれらは型から生成しなければならない正真正銘のメイドインジャパンのオリジナル。当時の三菱重工(今は昔、戦車などを作っていた会社)に製作を依頼し、1億とも2億とも言われるくらいバカ高い代金を支払っていたそうだ。

当然、ロケで使うとなるととんでも無い労力を要したろう。なので、ほとんどは撮影所のスタジオでの使用がメインとなっていたと聞いた。

アメリカとて同じようなものだったらしい。日本よりもさらに馬鹿でかいクレーンをトラックの荷台にそれこそ設置して、使う、という荒技だったらしい。今で言うカメラカーの化け物と思って差し支えないだろう。

そんな中、1980年代のヨーロッパは進んでいた。なんでだろうか。狭さは日本並み、映画ビジネスはアメリカ並み。そんな風土があったからか、とても機能的な機材を開発、販売し始めていた。

画期的だったのは、カメラで言えばアリフレックス(ドイツ)。特殊機材で言えば、パンサー(ドイツ)やイグリップメント(オランダ)。

何が画期的だったかというと、私に知る限りアリフレックスは当時は珍しい売り切り商法をとっていた。プロ向けのカメラはレンタルかリースで、買えるということはなかった時代に彼らは販売した。販売して得た資金を開発に回すことで当時のあらゆる先端技術を取り入れたカメラをリリースしていった。

パンサーやイグリップメントも同じく最新技術を導入していたがそれがけではなく、当時はなかった、いわゆる軽量化やコンパクト性を主軸にした機材をバンバン世に出していった。分解し折り畳めるクレーン、油圧に対する空気圧のコンピュータ制御のドリーなどがそれだった。

これは画期的だった。

私が業界に関わりだした1980年代後半になると、ある意味保守的な閉鎖的なアメリカハリウッドの中では、小さい、軽すぎて頼りない、など揶揄されて市場になかなか浸透していかなかった。しかし日本は違った。

飛びついた。

いや、飛びつきたかったが、いかんせん、今のようにインターネットなど一般にはまだない時代。導入するにはツテなど誰もどこにもなかった。となると、頼るのはいわゆる国内の商社ということになる。

商社から買うのは高い。今ならわかる。しかし当時はそれすらわからない。何せ現地のオリジナル価格がわからないのだから、高いのか安いのかすらわからない始末だった。

そんな時代に私は日本から遥か離れたアメリカにいた。

〜つづく