今起こっている世界について思うこと。

これからのロシアはどうなるのだろうか

プーチンは何を考えているのか。ロシア人がかわいそうだ。

もし仮にウクライナを取れたとして、じゃあよし、また国際社会の一員としてどうぞよろしく、とでもなると思っているのだろうか。

もう元の関係には戻れないだろう。それを承知でことを構えたのだろうからその後のロシア経済、ロシア人の生活をどうするつもりだろうか。

北朝鮮のように貧しい社会を望んでいるのだろうか。北朝鮮は未だかつて国民は豊かさを知らないからあのような劣悪な状況でもやってこれているのであろうが、ロシア国民は豊かさを知ってしまっている。西側諸国の生活水準を知ってしまっている。今更大昔の貧しいロシアに戻れるのだろうか。特に若い世代は、、、、。


一瞬と言える今の自分のエゴのために永遠とも感じる何世紀にも渡るこれからのロシア人の未来を失くす。
そんな人を指導者と呼べるはずがない。

指導者とは、

民のことを最優先に物事を考え実行していく。
国であれば国民、
会社であれば社員、
家族であれば親兄弟夫妻子、

今を見て先を問う。

自分のエゴは一切考えず、民の未来を見据える、

民の幸せを追求する。それはブーメランの如く自分の幸せへ還ってくる。
その逆は然り。

単純なことだ。

だからこそ、今のこのことは悲しく虚しく苦しい。

たった一人のエゴから始まったこの今のウクライナ人たちの痛みと未来のロシア人たちの苦しみをどうにかして取り除けないものだろうか。

取材を受けて考えたこと。

先日、久しぶりに雑誌の取材を受けた。

監督業などに関しての取材では聞かれることがほぼ毎回違うが、経営者としての取材では毎回大抵同じような質問を受ける

・直近の経営動向は?

・人材採用と育成については?

・今後の事業展開は?

などなど。。。だ。

直近の経営動向はこのコロナ禍があったのでまあやはり今までとはかなり違う回答になるが、人材採用と育成については長いスパンでの計画に沿って行なっているのでそれほど回答に大差は出ない。

今度の事業展開も5年単位だと結構変わるが前回の取材が去年だったからそれほど大きく変わるものでもない。

しかしこの30年で大きく変遷してきたトピックがある。それが、

・経営哲学を教えて下さい。

哲学というからには本質があり、それほど変わるものではないようなイメージがあるが、それはあくまでイメージであって、私の場合は、変わる、のだ。

さて、ではどう変わる、のか。

以前は、自分ができることは他の人もできるはずだと思い期待して人事をしてきたがそれは間違いだったと気づいた、ということ。

もし同じことができるのであればそれら全ての人は起業している、あるいは独立していくものだから。

そこから考えていくと、経営者というのは一つの専門性を持った職業であることがわかる。

その会社を起業する、あるいは経営することはその業態や業種、業界を熟知しなければならないとの先入観があるが、それ自体が幻であるのは、昨今の大手大企業においてのCEOの変遷が物語っているのではないだろうか。

それは例えば、コカコーラの社長はその次には資生堂の社長になっている、などという例である。

飲料水業界を熟知しているのか? 加えて化粧品業界を熟知しているのか?

全くそういったことはないだろうことは明白だ。

では何か?経営者とは、そこにある資源(人、物、金)を動かして組織を拡大、あるいは高収益化していく技術を持っている者、となる。

少なくとも私にはそう見える。それがその専門性の所以だと考える、といったようなことを今回の取材では話したような気がする。

起業した頃にはそんなことは考えていなかった。それどころか本来の自分がやりたかったことをやる為に経営をしていく以外はなかった。

どういうことか。

映像を作りたかった。その為に資金を貯め、人を集め、技術を作り出しておかなければならないと思い、邁進した。自分がそれをやる為にはまず、機材が必要、機材を集める、買うために売る、さらに買うために貸す、人を集めるために仕事を作る、技術を高めるために機材を買う、資金を貯めるために資金運用をする、また集める、売る、貸す、仕事を作る、運用する、、、。それらをきちんとマネージしなければならないので適切な人事を行う、正確な経理を行う、慎重な財務を行う、細やかな総務を行う。最初は全て一人で担っていた。その後人を雇用できるようになってからは分業し始めるがまだ一つ一つの指揮を自らがとっていた。その繰り返しで数十年。気がつけば一業界のトップ企業になっていた。しかし、自分がやりたかった映像製作は殆どできていなかった、それはそうだ、経営だけをしてきたのだから。

いつの間にか映像制作のプロではなく、会社経営のプロになっていた。

つまりそれが思想の変遷だ。

経営のプロになっていたことに気づくまでの20数年間は映像のプロとして仕事についていたつもりだったからストレスも甚大だった。なぜならプロの割に納得できる本数を作れなかったのだからだ。これはきつかった。何をもって自分のプロフェッショナルなのかがわからなくなってきていた。

しかし自分のプロフェッショナリズム的視点を映像制作のプロから経営のプロに変えてからは目から鱗のように全てが明確に見えた。霧が晴れたようだった。そこからは話す内容も変わっていった。

引っ張っていく運営から導いていく経営に変わった。

命令する手法から提示する手法へ。

それはあたかも高台から声を上げ進む方向を指さした後すぐに一番先頭に行き道無き道の草を刈り石を除く手法へと変えていった。

経営者とは、、、、

全ての責任を取るために個々の決断を瞬時に且つ的確に行う者のこと。

経営とは、、、、

組織の一人一人が最高のパフォーマンスを発揮できる労働環境を整え続けること。

これもまた今後変遷していくのだろうか。いや、これはもうあまり変遷しないだろう、なぜなら私は今や経営のプロなのだから。

メタバースは危険な果実

最近特に聞くワードの中にメタバースがある。

これは大変興味深い領域だ。ワクワクする。

しかし、ここで少し考えて見たい。簡単に手にしてみていいものか。

今はまだいいかも知れない。規模が小さいからだ。ただ、これから大きくなったとして、さて、そこに自分が入ってみたとしよう。

そこにいる相手は誰だ?今自分はどこにいるんだ?どこに何のルール、法律が適用されるのか?

世界中からアクセスできる、誰でもが好きに作っアバターを介して参加(?)できる。これが素晴らしいことであると同時にものすごく危険でもあるというのはすぐに理解できる。

世界中から誰でもアクセスしたら、一体どこのどの法律によって制御されるのか?各国の各企業が独自に作っているメタバースが今のように独立している間はまだいいだろう、しかし、それが過去のインターネットのそれのように縦横無尽に繋がり出したらどうなるのだろう。

インターネットですら、国を超えて通信できている、その弊害として国際的な税徴収システムの構築、ルール作りが急務になっており、なおかつそれができていない状況。

それに輪をかけてメタバースが大きくなっていったら、、、、。あああああああ、

それを制御するためにはブロックチェーン技術やNFT規格などを駆使してルールや市場の信頼性の担保作りが急務になってくる。

それらを待たずとしてメタバースが膨張していったら大変だ。しかし、その反面、面白い世界が広がっていくのも事実ではある。

人間の良識に頼って物事を考え進めてはいけない。なぜなら大半の人間はとても怠惰で弱い生き物だから。だからこそ厳しく律する何か他のものが必要になる。

常に物事は両側面を持ちながら進んでいくものだからな。

心持ちについて(今自分の周りにいる人たちは自分の心の鏡である)

心持ちについて(今自分の周りにいる人たちは自分の心の鏡である)

今日は少し心持ちについて話をしてみたいと思う。

よく、「類は友を呼ぶ」というがこれは全くその通り。真実だ。経験者は大いに語りたい。

今自分の周りにいる人、自分に関係している人、関わっている人々をよく見てみよう。周りをよく見ると、それは自分を映す最もいい鏡であることがよくわかる。

いい人に囲まれているときの自分はいい心持ちを持っていて、悪い人に囲まれているときの自分は悪い心持ちを持っているものだ。

だからよく周りを見渡してみてほしい。

騙されてばかりいる、ついてない、と嘆く前に自分の心持ちを見てみたらいい。

必ずそこに答えがある、なぜ自分が、、、それは自分が悪い心持ちでいるからでしかない。

いい心持ちであれば必ず幸せでいられる。いい心持ちであるにも関わらず不幸であるとしたならば、それはいい心持ちだと思っていてもよくよく心の中を覗いてみると悪い種子があり、それを取り除けていないからだということが、自分自身でよくわかるはずである。

それは普遍の真理であり原理原則であるから、今一度、自分の内面をよく覗いて見てほしい。私が言っていることが必ずわかるはずだから。

何を隠そう、私がそれを通ってきたからよくわかる。という話。

働き方改革について思うこと(リモートワーク)


リモートやテレワークという働き方がよくわかってきた昨今、何が本当に生産的であるかが問われてきていると思う.

働き方の自由性や自由度を測る上ではこのリモートというものも一つの選択肢であることは否めない。

しかし、ここでよく考えたい。本人の自由性や自由度を尊重するあまりそのほかに関わる人々の生産性に付属する協調性を犠牲にしていないか。

ここでいう協調性とは働く場における従来のコミニケーションの仕方のことである。

どの業種も昨今はデジタルとアナログの共存状態であると思う。

例えば、デスクワークのみであればデジタル化も可能な側面が多いかもしれないが、人との関わり合いを常とする直接商品をプレゼンする営業職や設備を必要とするR&Dワークであれば可能な側面は限定的になるだろう。

しかし、一旦社内のことになるとこの二つの職種は網の目のように絡み合って効力を発揮している場面が多く両者の間でのコミニケーションは重要になっている場面も多く存在する。

今までは、気が付いた時に社内を探して本人に直接会って話をして解決してきたことも、リモートを介するようになるとある人々においては一変してしまう可能性が高い。

ある一定数においてはデジタルに慣れ辛い人々もいる。しかしこと自らの職種における能力においてはそれを圧倒する技量を有する人々である。

このような人々は直接の会話を求める。できないとなるとそれはそれで困ることになる。強制的にデジタルを習得させることもできるかもしれないがそれは本人には苦痛になるため、本来の仕事の生産性が減少する可能性も出てくる。

ではどのように推進していくのが良いのか。

基軸になるのは、リモートにすることによるメリットがどうであるか、ということになる。

間違えてはいけないのは、ここにおいては個人の自由性や自由度、関わる人の協調性の欠落リスクなどではない、ということだ。あくまでも相対的な生産性が上がるか、である。

1、リモートにすることで生産性が上がるのか同じなのか(下がるのはナンセンス)

2、コストパフォーマンスは良くなるのか同じなのか、悪くなっても生産性でお釣りが来るのか。

この二点においてどうなるか、が重要である。

なので、リモートやテレワークとは、会社においては各自からの許可制ではなく、上長からの辞令に近いものである必要がある。

また加えて、リモートで良い職種を社内で探すということはリクルートの幅が広がるということにもつながる。全国からより優秀な人材を登用することが可能になるかもしれないという副産物も内包している。その辺りも導入をポジティブに検討する題材になるであろう。また本人にとっては通勤時間やその労力の削減によるストレス軽減が挙げられる。

この辺りのハンドリングや判断が経営陣に上手くできなければこのリモート化もなかなか推進していかない。

経営陣の手腕が問われるところだ。私も頭をフル回転させて考えていこうと思う。