40にして惑わず。ー現代版解釈1『論語・為政』ー

孔子の言葉に、

子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

と言うものがある。

意味としては一般的に、私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった。と言うことだが、私見では今の時代の寿命と孔子の時代の寿命では大きな隔たりがあるため、少し修正したい。

私曰く、我20代にして学に志す、40にして立つ、50にして惑わず、60にして天命を知る、70にして耳順う、80にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

どうだろうか。

10代では決して勉強が好きではなかった。必要に迫られガシガシ勉強したのは大学の時、20代に入ってからだった。その後も紆余曲折を経て本当の意味で40にして経験や勉学を通じて人として立てたように思う。その後も迷い惑い続け50が近くなりやっと迷うことなく安堵な精神状態になった。達観できるようになった。

未だ54歳であり、60は経験していないのでなんとも言い難いがきっと己の天命や使命を知るようになり70でそれを人々と共に実践できるようになるのだと思う。

そして80ともなれば水のように生きれらるのだと思う。それがこれからの人生100年時代の生き方ではないかと思う。あくまで私見だが。

なので、今迷い焦っている人たちは、大丈夫! 必ず安心できるようになる。そのために一所懸命,今を励み、迷い、学び、惑い、進んで行って欲しい。そのように過ごしていけば必ず50を越えたら安泰な心の日々がやってくる。清濁あわせて全ては良い経験になる。

“40にして惑わず。ー現代版解釈1『論語・為政』ー” への20件の返信

  1. その通りだと思います。きっと必ず安心できるようになる。そう思って生きるのと生きないのとでは本当に雲泥の差が生まれると思います。

    1. コメントありがとうございます。

      今を一生懸命生きましょう。どんなことも肥やしになり、それが良い結果を産みます。どんなことも、です。

  2. はじめまして、コメントお許しください
    私が今していること
    これを勉強したいと出会ったのが30
    それから10年一生懸命勉強し
    40代はそれを通して、経験、人との出会い、ご縁が繋がり
    50にしてこれが天命、使命と知りました
    現在51歳、日々苦難あれど迷わなくなりました

    ありがとうございます
    解釈に広がりを持てました

    1. コメントありがとうございます。

      五十にして惑わず。これからが人生で一番充実した日々を送れることと思います。
      良きも悪きも全てを糧と肥やしにして、実った果実を他者と分け合い喜びと安心を享受して行きましょう。
      人生捨てたモノではありませんね。そしてまだまだターニングポイントです。
      後半分も人生が残っています。楽しみましょう!

  3. 私は、残念ながら、50代まで常軌を逸したように、仕事と哲学の勉強に没頭し、東日本大震災で、遂に心身共にボロボロになり、不本意ながら引退を余儀なくされ、やっと地獄から開放され、心穏やかに生きられらようになりました。

    1. コメントありがとうございます。

      50代になり、心穏やかになれたのであればそれは素晴らしい人生だと思います。かく言う私も50近くになってやっと安らぎを得ました。何をどうしたわけでもありませんが、ただ物事を達観できるようになりました。酷く苦しい時を多く過ごした事でその後の大抵の事は大したことに思わなくなりました。もしもあまり苦しいことがなく人生を送っていたとしたら、今のこの安らぎはなかったと思います。人生プラスマイナスゼロ。いい意味で、です。これからの人生を心穏やかに心地よく過ごして下さい。風のように水のように。

  4. コメント失礼します。
    あまりにも共感して、自分で覚えている限り人生初のコメントを書いてしまいました。

    子供の頃父から聞かされた唯一の論語です。
    帰路に立った時、年齢の節目の時、この言葉を恋しく思います。
    先程考え事をしながら 四十にして迷わず を引いたら軽部さんのブログに出会い、そして軽部さんが修正された内容に深く共感致しました。

    今年80歳になる同居の母、50歳になる海外にいる姉と連なってカミーノを歩こうと思っています。
    「コロナだから無理だ」と周りに反対されていますが、人として立てるようになった45歳、憧れの50歳になった時に『子供達に背中を見せる』を少しはできたと自分を褒められるように生きよう、と元気を頂きました。
    ありがとうございました。

    1. コメント、ありがとうございました。人生初のコメントとのこと、大変光栄です!

      50歳までの数年間、どうぞ迷い惑い進んで下さい。きっと熟れた、良い50代を迎えられることと思います。
      そして、ゆったりとした気持ちでお子さんに道を指し示してあげられるのではないでしょうか。

      また、達観した心持ちで、お母様やお姉様と気持ちの良い人生を共に歩んでいけるのではないかと思います。
      かくゆう私も高齢の両親とは本当はずっと同じcaminoを歩いていたのだとやっと気づきいた次第です。

      Anda el camino del mismo con la familia Por todos los medios.
      !Que tengas una vida maravillosa!

  5. 「40にして立つ、50にして惑わず、60にして天命を知る、70にして耳順う、80にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。」

    10歳ずつズレてませんか?

    1. コメントありがとうございます。
      はい、確かに10歳ずつズレています。ズラしています。
      現代に置き換えて考えてみました。
      宜しくお願いします。

  6. 軽部進一様 ありがとうございました。10歳ズラしてみるのか。人生100年時代ですものね。気が付かなかった。孔子が80代まで生きていたら何という言葉を残していたか気になっていました。80代の私にとって今日は記念日です。改めて、感謝!

    1. コメントありがとうございます。記念日とまでおっしゃっていただけるとは嬉しい限りです。ありがとうございます。書き留めておいて良かったと心より思いました。人生100年時代です。私は80代に到達したら、水のようにゆっくりと穏やかに生きていきたいと思っています。本来私たちは先を急いで生きる寿命50年強の春秋時代や戦国時代に生きてはいないのですから。

  7. 軽部進一様
    人生100年時代…10歳ズラして 論語を詠む。
    目からウロコです。
    80歳を目前にして 己の欲する所に従って好きな事して 生きればいいんだ…と楽観視していましたが、10年早いのですね!
    まだまだ学び、周りに気を配って生きなければと納得しました。若返った気分です。
    ありがとうございます。

    1. コメントありがとうございます。
      人生100年時代といわれる昨今ですが、明治時代にもすでにその時間軸を考えていた方がいたようです。

      四十、五十は洟垂れ(はなたれ)小僧
       六十、七十は働き盛り
       九十になって迎えが来たら
       百まで待てと追い返せ

      と述べたのは、かの渋沢栄一氏でした。

      氏の記述に、80代はありませんが、私が推察するに、80は60、70で培ったものを社会に還元するとき、とでも捉えられていたのではないでしょうか。

      はな垂れ小僧の私がいうのも烏滸がましいものです。失礼しました。
      人生まだまだです。是非楽しまれて下さい。 私もこれから楽しむ所存です。

  8. 軽部進一 様

    本日、朝、なんと自分は最低なやつだろうか。
    と、今までの自分との関わり方や、人との関わり方、などなどを思い返していました。
    ふと、「40にして迷わず(惑わず)、50にして天命を知る」と調べてみると、こちらに辿り着きました。
    40歳後半となり、迷い、迷い続けて、今に至り、軽部さんの文言を読み、とても勇気付けられました。

    今からでも、大丈夫!と思う事ができました。
    希望をいただきました。
    誠に有難うございます。

    すがわらかずひろ

    1. すがわらさん、コメントありがとうございました。
      私も40代は惑いまくっていました。40代後半に向けてその速度は加速度的に増し苦しみました。しかしある日突然、抜けました。抜ける、というのが一番合っている表現ではないかと思うくらい、抜けました。
      私がその時まで惑い苦しんできたことの根本は一体何だったのか。それは大抵なんらかの”私の執着”が起因していたのでした。執着といっても物欲など物に対するそれだけではありません。人に対すること、人に話したこと、人から聞いたこと、人からの評判、人に対する評価、昨日の私、未来の私、明日の誰か、昔の誰か、現象や状況、、ありとあらゆる”自分を不安にさせる、自分が不安になることやもの”全てに執着し、そういった無駄な考えに縛られて生きている時が苦しく惑っていたのです。
      ああ、あるがままにあり、受け入れればそれが一番幸せなんだと思えた瞬間に、抜けました。50も本当に手前の歳だったと思います。長々とすみませんでした、あくまで私の場合、です。ご容赦ください。
      なんにせよ今からでも十分大丈夫です。どのような形でもご自身と向き合えば必ず、抜けます。そして天命というようなものがその後でじわっと感じられてくることと思います。
      ありがとうございました。

  9. 今日75才 後期高齢者の仲間入りです。
    元気でいられるのも後何年かと思うと自分の人生はなんだったのと思う
    80才になれば、水の様に生きられる。まだまだあちこちにぶつかる様ではこの先如何でしょうか?

    1. コメントありがとうございます。そのような思いが心に浮かぶのは自然なことではないでしょうか。私が思うに、年齢はあくまで数字に過ぎません。人生にはいくつになっても新たな挑戦や喜びが待っています。80歳になれば、人生の流れがまた新たな局面を迎えるでしょう。そして、その局面にはまた新たな発見や喜びがあると思います。人生は水のように流れるものであり、年齢を気にすることなく、今この瞬間を大切に生きることが大切ではないでしょうか。人生はまだまだ輝かしい可能性に満ちています。今後も新たな道を探し、新たな出会いや経験を楽しんでください。きっと素晴らしい時が待っていると思いますよ。

    1. コメントありがとうございました。
      素晴らしい取り組みですね。毎年夏の天王山で学力を固める姿勢は、本当に素晴らしいです。そのような努力はきっと素晴らしい成果をもたらすことでしょう。頑張ってください!あなたの努力と熱意はきっと周囲にも影響を与え、素晴らしい未来を切り拓くことにつながるはずです。応援しています!

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