起業してから早30数年 その1

厳密に言うと起業は1988年だから33年だが、社長になったのは帰国してからだから27〜8年か、会社のサイトに書いてあるのとは少し違うけどその辺りはうろ覚えだ。なにせその頃は必死だったから”いつ”とかを考えている暇さえなかった。

そんなことを思い出すほどの余裕はずっと後になってからだった。まあとにかくなぜ創業年と社長就任の年が違うのかと言うとその理由は当時の私を取り巻く環境がそうだったからだ。

当時、私はアメリカに留学していた。起業は留学中に行ったからだった。


留学中ということは学生であり当然ビサは学生ビサ。つまり就労してしまうと不法滞在になってしまい下手をすれば強制送還になってしまう。

なので、私は起業するにあたり知り合いの弁護士に幾度となく相談をし、合法的に起業し、そして働くことのできるその仕組みを模索した。

アメリカでの起業の仕方や、なぜ起業したのかについては今度どこかでまた詳しく書きたいと思うので今回は割愛する。

とにかくその仕組みとはこうだった。

ー続く

これからの君達へ

カメラ周りを覚える、照明周りを覚える、音声周りを覚える、すると特機がどう動けばより良いのかが見えてくる。

「〜周りを覚える」、は机上の勉強だけでは全く足りない。

やはり現場で見て触って動いて見なければ本質がわからない。

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日々の失敗は本当にいい勉強になっているはずだ。次に生かしてこそ。

そしてリアルな現場をどんどん踏んでいってほしい。

20年前に見た未来 その1「一億総ディレクター時代」

これらが具現化すればどんなにやりたいことが現実化するだろうと思って突っ走っていたあの頃、それらが今は本当に実現している。なんて素晴らしいことだろう。その当時、ではどんなことを考えていたのか、具現化させようとしていたのか、それを少し思い出してみようと思った。

一つ目。

今はYouTubeや他の動画サイトとして現実化しているが当時は何一つなかった。なかったから作ろうと思った、当時のNTTドコモと組んで。

それがこのブロードバンドダッシュ放送局構想。

当時付けたキャッチフレーズは「一億総ディレクター時代の到来」だった。まだ、インフラがISDNからやっとADSLに変わり始めた頃、ストレスない動画の配信など夢のまた夢だった。

それでもこのシステムであればなんとか具現化できると進めていた、総務省まで巻き込んで。しかし具現化はできなかった。あれから20年。様々な選択肢すらあるほどの動画サイトができ、一億総ディレクター時代は叶った。これは楽しい。

他にも、今は当たり前の、ネットワークカメラやロボット、VR空間やホームセキュリティシステム、スマートホン、クラウドコンピューティング、果てはそれらに必要なUSB電源まで考えて提案していた。それはおいおいまた書こうと思う。

ー続く

メッセージの送り方を模索してきた

2019年末から今日まで続いているこのコロナ。本当に未曾有の大災害だと思う。

ここまで長く続くとこれが日常だと錯覚さえしてしまう。人とのコミニケーションも満足に取れなくなって久しいから、何かいい方法はないものかとずっと考えていた。

去年の暮れには、普段は忘年会で言葉を述べるのだがそれができないということで、ビデオを撮りそれを社内に向けて配信した。

しかしそれを毎回毎回やるわけにはいかない、でもなんらかかの方法で皆にメッセージを送り続けたい、ならばブログはどうだろうか。そんな思うから書こうと思い立った。

しかし、いかんせんタイプが苦手で長文は難しい。脚本を書く時でさえ今までは手書きで最初書き、のちにタイプするという二度手間をしてきていた。それでは、例えば毎日なんらかのメッセージを書くのは難しい。やはりそれにはタッチタピングが必須だと思った。

そのタッチタイピングで打つということがある程度できるようになってきたので、書き始めることにした。これで近々公表できるのではないかと今まさに準備をしている。

いくつか書きまとめたらブログをやっていることを公表しようと思っている。それまでは書くトピックも右往左往することだろう。

マニアな映像機材の今昔話 その1

さて、今日は少し映像機材について語ろうか。

私がこの業界、とりわけ、映像機材に関わってからはや三十数年がたった。その間には目まぐるしい進歩があった。ここで今、少し当時を振り返ってみたい。

一番最初の頃、まだ私が少年で、何もわからず近所を駆け回っていたそんな頃、1960年から70年、そして80年代初頭のこと、映画のカメラはパナビジョン。テレビのはNHKから池上通信。そんな時代だった。それ以外は話にもならない、とまで言われていたらしい。

特殊撮影機材も大掛かりのものだった。今のように折り畳んだり引っ込めたりなどできる代物はなく、トラックの荷台に首長竜かと思われるようにドカンと積まれたいわゆる大クレーンや中クレーンと言う馬鹿でかく重い撮影クレーンだった。時折遊びに行った日活撮影所にはそんな機材がたくさんあったと記憶している。(探してみたが流石に昔のこの頃のクレーンの写真はなかった。)

そして、しかもこれらは型から生成しなければならない正真正銘のメイドインジャパンのオリジナル。当時の三菱重工(今は昔、戦車などを作っていた会社)に製作を依頼し、1億とも2億とも言われるくらいバカ高い代金を支払っていたそうだ。

当然、ロケで使うとなるととんでも無い労力を要したろう。なので、ほとんどは撮影所のスタジオでの使用がメインとなっていたと聞いた。

アメリカとて同じようなものだったらしい。日本よりもさらに馬鹿でかいクレーンをトラックの荷台にそれこそ設置して、使う、という荒技だったらしい。今で言うカメラカーの化け物と思って差し支えないだろう。

そんな中、1980年代のヨーロッパは進んでいた。なんでだろうか。狭さは日本並み、映画ビジネスはアメリカ並み。そんな風土があったからか、とても機能的な機材を開発、販売し始めていた。

画期的だったのは、カメラで言えばアリフレックス(ドイツ)。特殊機材で言えば、パンサー(ドイツ)やイグリップメント(オランダ)。

何が画期的だったかというと、私に知る限りアリフレックスは当時は珍しい売り切り商法をとっていた。プロ向けのカメラはレンタルかリースで、買えるということはなかった時代に彼らは販売した。販売して得た資金を開発に回すことで当時のあらゆる先端技術を取り入れたカメラをリリースしていった。

パンサーやイグリップメントも同じく最新技術を導入していたがそれがけではなく、当時はなかった、いわゆる軽量化やコンパクト性を主軸にした機材をバンバン世に出していった。分解し折り畳めるクレーン、油圧に対する空気圧のコンピュータ制御のドリーなどがそれだった。

これは画期的だった。

私が業界に関わりだした1980年代後半になると、ある意味保守的な閉鎖的なアメリカハリウッドの中では、小さい、軽すぎて頼りない、など揶揄されて市場になかなか浸透していかなかった。しかし日本は違った。

飛びついた。

いや、飛びつきたかったが、いかんせん、今のようにインターネットなど一般にはまだない時代。導入するにはツテなど誰もどこにもなかった。となると、頼るのはいわゆる国内の商社ということになる。

商社から買うのは高い。今ならわかる。しかし当時はそれすらわからない。何せ現地のオリジナル価格がわからないのだから、高いのか安いのかすらわからない始末だった。

そんな時代に私は日本から遥か離れたアメリカにいた。

〜つづく

あれから2年が過ぎて、

最初で最後のブログを書いたのが2019年、2年以上前になるが、それっきりこれっきり書いていなかったわけではない。

紆余曲折はしたものの、他のブログサイトに掲載したりもした。

なぜなら、このWordPressでのサイト構築になかなか手が伸びなかったからだ。なかなか難しそうに思えたから。

それなのになぜ今か?それは、、、、、タッチタイピングができるようになったからだ。

練習した、練習した。三ヶ月か?四ヶ月か。

50をとうに過ぎて、何を思ったか、

「そうだ、タッチタイピングを覚えよう!」

となり、毎日10分程度の練習をしてみた。

これが結構難しい。当たり前だが。

しかし、もしタッチタイピングを習得できたなら、

「頭で考えていることをスラスラを文字にできる、こんないいことはないではないか。」

と思ったのだ。

実際、未だかなりの確率で間違えるが、しかし、確かに頭に浮かんだ言葉をすぐに文字にできる、この便利さは今まで味わったことがない。

ずっと、考えてはキーボードを見て打ち、また考えては打つ。を繰り返してきた。数十年も。

ある日、ふと若い世代に

「タッチタイピングは難しいができるのか?」

と問うてみたら、

「それは小学校の必須科目だったからできて当たり前ですよ。」

的は答えが返ってきて衝撃をうけた。それを境に習得しようと思ったのだ。

今もこの文章をタッチタイピングで打っている。正解率はまだ半々というところだろうか。

そしてこれを機に、ブログなるものも本格的に始めてみた。練習も兼ねて。

そんなこんなで、この複雑なサイト構築も前回のようには挫折せずに行えた、という訳だ。

さて、これからもっと正確に、速く、打てるようになればもっと面白いことが書けそうだ、とひとりごちている。

今日の格言、

「継続は力也」

「石の上にも三年」